2010年1月20日水曜日

本|『人間の器量』福田和也著(新潮新書)

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人間の器量 (新潮新書)
人間の器量 (新潮新書) 福田和也著

結構売れているらしく、新聞で見た売れ筋ランキングの類でベスト10入りしていました。書店でもよく見かけます。

曲がりなりにも大学時代は福田教授の研究室でしたので(単位をいただくだけの底辺学生でしたが)、福田氏の著作を見ると、何かと気になります。帯には「なぜ日本人はかくも小粒になったのか」と、なかなかブルブルくる言葉も踊っており、読んでみました。

帯の続き。
能力があるか、ないか。
いい人か、悪い奴か。
その程度の事で、もて囃されたり、貶められたりする。
人物観の平板さが殺すのは、人材だけではない。
人を単純に切ったり、持ち上げたりする人は、自分にたいしても、そういう見方しかできなくなってしまう。
自らの心と資質は、測りがたい。
善悪、良否の敷居をこえてしまうような人間観、その物差しとして器がある。
人を見る目が薄っぺらいものになっちゃいないか、という視点で、「器量がある」とは何かを解きます。


明治以降の器量人名鑑

一番ページ数が割かれているのは「第二章 先達の器量に学ぶ」で、西郷隆盛、横井小楠、伊藤博文、原敬、松永安左衛門、山本周五郎、田中角栄の7人が紹介されています。ちょっとした逸話集のような感じですね。仕事はできるのに女にだらしないとか、異常なまでの人たらしとか、「豪傑」といった印象の強い人物たちです。

上記7人は割と有名どころですが、その他にも多彩な人物が引き合いに出されます。こんな人物がかつての日本にいたのだなと、教養の浅い私は日本への理解が少しばかり深まりました。

最近、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』や、同じくNHKのドラマ『坂の上の雲』が、(少なくとも私の周りでは)注目を浴び、良い評判を得ています。twitterを見ていると、『龍馬伝』はソフトバンクの孫社長(@masason)がよく涙しておられるようです。

私も両番組はかかさず見ているのですが、坂本龍馬や秋山兄弟といった人物がかつて日本にいて、時代の大きな一端を担っていた、その姿に誇りや自信(?)のようなものを得たいという気持ちが自分の中にあるのかなと思っています。

日本も捨てたもんじゃないな、と。
そんで自分も頑張らなきゃな、と。笑
(自分だけでしょうか・・・)
活力をもらっている、と言う方がよいでしょうか。

本書はそんなかつての―ちょっと癖がありますが―日本人を、福田氏の底知れぬ知識によって、改めて掘り起こされた人物名鑑のように感じました。終章の後に、時代ごとの十傑も紹介されています。日露戦争でいうと、秋山兄弟ではなく、乃木希典にスポットをあてているあたりは福田氏ならではでしょうか。坂本龍馬も出てきません。


私が気になった器量人:宮本常一
忘れられた日本人』(岩波文庫)で知られ、すでに鉄道が珍しくないような時代に、とにかく歩きまくった人とのことです。同著は岩波文庫のなかで夏目漱石の『こころ』とならぶベストセラーなんだとか。本の名前はよく目にしていたものの、まだ読んだことがありません。この本は宮本常一が自分の足で歩いて、出会った老人たちから聞いた話をまとめたもののようです。
自分の足で歩いていくことは、人と出会う事であり、考える事、見つける事だと宮本は言っています。(中略)誰もが文明の力を借りて、高速で移動している時代に、自分の足をつかって移動することは、その分、丁寧に物を考え、発見するということになるのです。宮本の父親は、つねづね「先をいそぐことはない、あとからゆっくりついていけ、それでも人の見のこしたことは多く、やらねばならぬ仕事が多い」と、語っていたそうです。
(P.147)
著者は、「急ぐということは考えない事であり、見ないということでもある。その事になかなか、人は気づかない。」と指摘しています。
今の自分に刺さるものがありました。今までちょっと急ぎ過ぎてきた、と。考えていなかったこと、見逃してきたことがたくさんある、と。立ち止まることは勇気のいることですが、今の自分は図らずもそのチャンスをもらっているのかもしれません。


器量人十傑wikipediaリスト

最後に、調べついでで「器量人十傑」に上げられている人物のwikipediaリンクリスト。

【明治】

【大正・昭和戦前】

【戦後から今日まで】

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